「土の環」を立ち上げて、農的ライフの魅力を発信
土屋さんは一週間のうち、2~3日程度をパーソナルトレーナーの仕事に、残りの時間を農業と生活、そして新しい事業の立ち上げに使っています。そのベースとして「土の環」という組織を立ち上げ、まわりの仲間と連携しながら、南房総の魅力発信を始めているといいます。
「『土の環』は都会から移住してきた人を中心に、まわりの興味のある人たちも巻き込みながら、ワークショップなどを時々やっている活動です。たとえば味噌を仕込んだり、野菜の収穫体験をしたり、芋煮会をやってみたり。いろんなことをやっているんですが、どういう方がどういうことに興味をもってくれるかが少しずつ分かってきました。今後目指している活動をしていくために、試行錯誤している段階です。」
今はまだ、東京の仕事が主な収入源
しかし「土の環」はまだ助走段階で、生業(なりわい)とするには時間がかかりそう、とのこと。広い畑もありますが、専業農家になるのではなく、あくまでも農業体験の場として活用したいと話します。つまり、畑からの収入は一切無し。結局、現在の生業となっているのは、移住前から続けている「パーソナルトレーナー」のお仕事です。都会での仕事を、館山に居ながらどうやってこなしているのでしょうか?
「僕はもともと大手のフィットネスクラブに所属して、そこからトレーナーになったので、フリーランスとして活動するようになってからも、基本的にはフィットネスクラブという箱の中で仕事をしてきました。これを今も続けているので、週に2回くらいのペースで都内のジムに行って、個人トレーナーをしています。移住して最初の頃は週に3日くらい行っていたんですが、今はスケジュールをまとめてもらって、2日だけ行っています。そのほか、こちらに来てから始めた仕事もありますね。」
「ちょうど僕が移住してくる頃に、『アウトドアフィットネスクラブ』というジャンルの施設が北条海岸にできたんです。これはマシンを使って体を鍛えるんじゃなくて、自然を相手にした運動、たとえばカヌーやSUP(スタンドアップパドル)などで身体を鍛え、整えようというものですが、僕はそこでスタジオレッスンを持って「体を整える」というプログラムをしています。この二つが今の主な仕事ですね。」
移住の決意。「自然の中で暮らせば、人はより健康になれる」を実感
「身体と健康のプロフェッショナル」としての知識を高めていくに従って、室内でマシンを使ってトレーニングをすることに疑問を持ち始めてきたという土屋さん。そこに結婚というタイミングが重なり、将来の生活を考えた時に「自分たち合うのは田舎だ」という考えに至ります。
「最初はただ、都心ではない、自然が残っている環境で暮らしたいなと思って。その時にはまだ子どもはできていなかったんですけれど、夫婦で将来の暮らしのイメージをした時に、『いま住んでいる環境で子育てができないな』って結論になりました。」
「それに僕自身も、身体のケアとかサポートに関して日々考えてきた中で、今までのやり方に疑問が出てくるようになったんですね。最終的には、人が健康を保って生活するには、自然にふれあう機会を持ったり、どっぷり自然の中に入って暮らしたりしないと、体の機能を高めたり、維持することは難しいんじゃないかって思うようになって。」
実際に移住して以来、土屋さん自身のコンディションも整い、「自然とふれあう生活」の効果を身をもって実感しているといいます。
「がらっと環境を移したことによって、それまで自分の憶測だったものを、実際に取り入れて感じることができていますから、自分の考えが正しかったと自信を持って言えるようになりました。」
いろんな「移住の先輩」に会えたから、不安は少なかった
移住することを決めてから、南房総エリア以外にも、大月周辺や湘南エリアなど、ほかの地域も探したというご夫妻。最終的になぜ、この南房総エリアに決めたのでしょうか?
「前職を継続しながらゆるーく移っていけそうな場所、という条件で探していたので、ほかにも大月とか、湘南とかも探したましたが、ここのエリアがいちばんフィットしたんですね。都心まで2時間というのは、通勤もなんとかできる範囲ですし、ここはいい意味で「作られていない田舎」を感じて、そこがすごく心地良かったんです。」
「夫婦で2年ほどいろんな場所を回っていて、南房総にも2年ぐらい通っていました。ここは行政の移住支援もしっかりしているし、このエリアへの移住を手伝っている『おせっ会』というNPO団体が相談に乗っていただけたことも良かったですね。その2年の間に実際に移住したいろんな人に会って、どのエリアがいいのか、どういう暮らしができるのかということを、直接聞くことができたので、不安は少なかったです。」
農地が付いた物件をようやく探し、新生活をスタート
いろいろなアドバイスを聞いた結果、土屋さん夫妻は移住先を南房総エリアに決め、まずは2014年、南房総市にある新規就農者向けの住宅に入居。妻の有希子(あきこ)さんが現地の有機農家さんの下で研修生として働き、土屋さんはトレーナーの仕事のために、東京へ通うという生活を始めました。空いた時間には、奥さんから手ほどきを受けて農作業もしていたといいます。しかし、いざ畑付きの物件を探そうとしても、なかなか見つからず、「自分の畑」を持つことの難しさを感じたそうです。
「移住して1年で子どもを授かったので、(予定の2年間を前倒して)研修生活に区切りをつけようってことになり、自分たちが活動を移す場を探しました。でも、不動産屋さんに行っても、家はあるんですけれど、畑がある物件は全然見つからなかったんですね。もう全然(笑)。そこでふと、不動産業をやっていた知り合いに聞いてみたら、数日もしないうちにここを紹介してもらえたんです。本当にタイミングが良かったんだと思います。」
一見すると空き家も多く見られるのですが、なぜ、畑付きの物件が少ないのでしょうか?
「特にこういう古い集落だと、家とか農地を手放すことに対して、ものすごく抵抗を持っているところが多いんです。誰も住んでいなくても、子どもが帰ってくる見込みがなくても、なかなか売ろうという話にはならないんですね。だからこういう物件を探すのはけっこう大変なんです。そもそも農家にならないと、農地を売買できないですから、そこも移住者にとっては難しい点だとは思います。うちは農家になったという許可をもらって、それと同時にこの土地を買わせていただきました。」
田舎の就農生活は「ぜんぜんスローじゃない」
2016年11月に新居が完成し、その前月には長女の咲環(さわ)ちゃんも誕生した。新しい家族、新しい土地とともに始まった土屋さん一家の南房総ライフ。都会とはまったく違う生活に、戸惑ったところは無かったのでしょうか?
「僕の場合は、移住しての苦労は無かったですね。生活のリズムが大きく変わったので、それに体が慣れるまでは少し大変でしたけれど。通勤に2時間かかるといっても、バスで座っていられますし、毎日旅行しているような楽しみもあるので、週に2回くらいなら我慢できるレベルですね。」
「想像と違ったのは、意外と時間的な余裕が無い点です。田舎ってけっこうやることが多いんですよ。農作業もあるし、周りの草刈りもあるし、家のメンテナンスもあるし、環境を保つためにすごいエネルギーを使うんです。なのでそれが嫌な人には、田舎の暮らしは難しいと思いますね。僕の場合は、それもある意味レジャーや楽しみとして取り入れているので辛く感じることありません。田舎を『スローライフ』ってよく言いますけれど、実際に移住した方々も『ぜんぜんスローじゃないよ』という意見が大半ですよ。」
現在は地域の人々や移住してきた人々とも、新しい「環」を作りながら共存している土屋さん。南房総の魅力を聞いてみました。
「コンパクトな場所に山も海もまとまっていて、自然がすぐ身近にあるという点。あとは、移住してきた方にすごく面白い人が多いですね。本当に多種多様な方がいるので、人付き合いの『環』も広がります。僕も農業に関わるイベントをやりますが、音楽やDIY関係などいろんなイベントなどもあって、とにかく楽しいですね。」
今後は「農のある暮らし」を実践しながら、情報を発信していきたい
現在は「助走段階」と話していた「土の環」の活動。今後土屋さんは徐々にこちらに軸足を移し、この農家の建物をベースにして、「農のある暮らし」の魅力を伝えていきたいといいます。その思いを伺いました。
「僕はただ単に農業をやるとか、農業をPRしたいとか、そういうことに思い入れがあるわけではありません。『農的暮らし』というか、農業ってもともと身近にあった暮らし方ですから、それが見直されるように情報を発信していきたいと思っています。僕らの取り組みを通じて、今まで農業にまったく触れたことがなかった人にも、「農があるっていいな」って感じてもらえたらいいなと思うし、それが健康にもつながるぞということも、うまく発信できたらいいなと思っています。」
そのベースとなるのが、今回の取材でうかがった古民家。いずれは農業体験者向けの宿泊施設にもなるそうです。
「この古民家は、これから宿泊営業許可をとって宿泊ができる場所にしたいです。ワークショップを定期的に行って、体のレッスンやケアの場にもしていきたいです。もちろん、畑に遊びに来るなど「農」で癒される環境も作っていけたらいいなと思います。いろんなところにある畑を生かした体験を広げて、「農業をもっとやってみたい」という人が増えたら貸し農園もいいな、と思っています。」
“身体のコンディションを整えるトレーナー”から、さらに一歩踏み出して“自然と農を通じて、身体を整えるコーディネーター”として動き始めた土屋裕明さん。身をもって体験したからこそ伝えられる、リアルな「農と健康」の知見は、きっとこれから沢山の人々に、新しい発見をもたらしてくれるのでしょう。